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       2022年(令和4年)

「ドカ雪来る」
2022年(令和4年)が明けた。岩見沢名物の雪が降った。昨年よりは若干少なめと言っても1月4日現在108㎝の積雪。2日前に屋根の雪を下ろし、雪庇の除去もしたがご覧の通りの状況。風向きが北西になると石狩湾から線状の雪雲が岩見沢に向かってくる。さて近々屋根に上がって雪庇を落とそうかな😄(◎_◎;)

今年2回目の排雪作業

今年2回目の排雪作業が始まった。バスがすれ違うのがぎりぎりの状態で道路が非常に狭くなった。ロータリー車が雪の壁を削りながらダンプカーに雪をつぎ込む。その後をパワーシャベルが雪の壁を崩し落として、再びロータリー車がダンプカーに雪をつぎ込む。この作業を1日いっぱい続けて道路を広げていく。豪雪の岩見沢で見られる毎年の風物詩だ。☻


昨日(1月26日)8時から夕方6時過ぎまで、除雪車・ロータリー車・パワーシャベル・ダンプカーがフル稼働して道路わきの硬い雪の壁を崩し、積込を繰り返して排雪し終わった。これで通りへ出てくる車も安全に走ることができるようになった。これまでは車の頭を少しづつ出し、走ってくる車に衝突しないようにしなければならなかったのだ。12月から2回目の排雪になるが、このあとまだ1回はあるだろう。(*ㇸ*)
家の前の雪山も排雪業者に持って行ってもらった。すっきりとした。

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2022年2月24日ロシア軍がウクライナへ侵攻
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日本も20世紀に大きな誤りを犯し、破壊と殺戮の歴史を記した。その後半世紀以上平和を維持し続けてきた。この危機事態をどうすれば解決できるのか。制裁には制裁、禁止には反発、憎しみには憎しみ、不信には不信、負の連鎖がどこまでも深く続き解決の糸口が見えない。
3月2日、国連総会(198か国)「緊急特別会合」を開き、『ロシアに対する軍事行動の即時停止を求める決議案』を採決した。
賛成141か国
反対  5か国(ベラルーシ、北朝鮮、シリア、エリトニア、ロシア)
棄権 35か国(中国、インド、アラブ首長国連邦、アルメニア、カザフスタン、キリギスタン、タジギスタン、モンゴル、他)
無意思12か国(アゼルバイジャン、モロッコ、トルクメニスタン、ウズベキスタン、他)
写真の電光掲示板に採決が表示されている。
3月15日、(ポーランド)モラヴィエツキ首相・(ポーランド与党党首)カチンスキー・(チェコ)フィアラ首相・(スロベニア)ヤンシャ首相が列車でウクライナのキエフに入り、ゼレンスキー大統領と会談してウクライナへの支援を明言した。写真左からヤンシャ首相、モラヴイエツキ首相、カチンスキー党首、フィアラ首相。
キエフでウクライナのゼレンスキー大統領と会談するポーランド、チェコ、スロベニアの3首相は、自国にも及びかねないロシアの侵攻に対して、反対する明確な意思を表明した。ゼレンスキー大統領を支持する意思表明は、ウクライナ国民にとって力強い支えになった。近隣諸国は国外退避する子供や女性たちに十分な援助の手を尽くしている。しかし、破壊と殺戮の戦争がいつ終わるのか、停戦の糸口が見えてこない。
ゼレンスキー大統領、3月23日日本の国会でオンライン形式で演説する(現地とリアルタイム)
ゼレンスキー大統領は日本の国会で衆参両院の議員を前にリアルタイムのオンライン形式で演説をした。「空爆で数十の町が破壊された。数千人が殺され、そのうち121人は子供だ。」また日本の援助やロシアへの制裁について建設的、原理的な立場をとっていただいた。アジアで初めてロシアに対する圧力をかけ始めたのは日本だ。」と謝意を示した。その上で「ウクライナに対する侵略の津波を止めるために、ロシアとの貿易禁止を導入し、各企業が市場から撤退しなければならない。」と禁輸措置を呼びかけた。

 *2022年1回目のエイジシュート達成*
5月30日(月)ニューシノツゴルフコースで「友の会」コンペ。INコーススタートで10Hパー5でいきなりバーディ発進!次いで11H,12Hとパープレー。珍しく風が穏やかで絶好の天気。後半OUT1Hパー5でもバーディ。前半41、後半41でTOTAL82のエイジシュート(*^_^*)
今年も幸先がいい😊‼
ピン型のパターの感触がすこぶる合っている。

*7月12日「アサヒビール杯」であと一歩=エイジシュート*
曇りで26℃、少し蒸す感じだが西南の風1m/sと珍しく風のない絶好のゴルフ日和(^^)/。OUT(西)の5H(Par3)でバーディ。IN(中)の8H(Par3)でもバーディ。ウェッジがよく1ピン以内にのる。44と43で87、もう1少なければエイジシュートを達成した('_')
5番・7番・9番のウッド3本、アイアンは7番からPWの4本、ウェッジは48°・56°・60°の3本、ピン型のパターで今シーズンはいく。
ゴルフ5(旧アルペンコース)はグリーンがポテトチップス状で速い、慣れには時間が必要。風が出ると非常に難しいコースになる。打ち急ぐことなく、インパクトでボールから目を切らず、集中力を持ってプレーしよう(^◇^)

77年前、米軍は1945年8月6日8時15分「広島に原爆投下」・9日11時02分「長崎に原爆投下」
当時の広島市の人口約35万人のうち9万人から16万6千人が被爆から2~4か月以内で死亡したとされています。巨大な「キノコ雲」の写真は、投下した米軍機が撮影したもの。
1939年8月2日、ドイツからアメリカに移住したユダヤ人アルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に『大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。-----』との手紙を書いた。
1939年9月1日、第2次世界大戦が勃発。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。同年9月26日アメリカが『マンハッタン計画(原子爆弾製造)』。1944年9月ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の間で『ハイドパーク覚書(ケベック協定)』を交わし「日本に対する原爆を使用することが決定された」。当時「ロスアラモス国立研究所」所長のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーがマンハッタン計画を主導した。
 8月6日0時気象観測機の「B29」3機がマリアナ諸島テニアン島の飛行場を離陸、原爆投下機の「エノラ・ゲイ号」、科学観測機や写真撮影機など6機のB29が約7時間の飛行に就いた。8時12分エノラ・ゲイが広島市の攻撃地点に到着し、目標の相生橋に向けて8時15分原爆「リトルボーイ」が投下された。高度600m上空で炸裂した原爆は、爆心地から500m以内で即死や即日死者が99%、1km以内で90%の死者がでた。
 当日、たまたま難を免れた人が目の当たりにした状況は、『黒焦げになった多くの遺体、「痛いよう。熱いよう。助けて。」と泣き叫ぶ声が今も耳に残っている。まるで地獄にいるような状況で今でも時々夢を見ます』と言っています。
 当時の米国はハリー・トルーマン大統領。日本政府は8月10日、スイス政府を通じて抗議文を米国政府に提出した。「……市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を壊滅せしめたりは……米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または消失せしめたり……従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪悪なり……」
 広島原爆の破壊力‐‐‐ウラニウム型爆弾で、事前の爆発実験による動作の検証はなされずに広島に投下された。
爆風==爆心地の爆風速は440m/s以上と推定され、音速349m/sを超える爆風で、衝撃波を伴い家屋のほとんどを破壊した。
熱線==爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当するもの。地表温度は3000度~6000度に達した。 
放射線==大量のアルファー線・ベーター線・ガンマー線・中性子線の放射線の被爆者は即死また1か月以内に死亡し、5km以内の被爆者は放射線症により命を落とした。
8月9日午前11時2分長崎市に2発目の原爆を投下した。当時の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊した。当初の第1目標は福岡県の小倉市(現「北九州市」)であったが、煙で視界が良くなかったことと日本の戦闘機が緊急発進したことで第2目標の長崎市に変更した。この原爆の破壊力力は広島を大きく上回り地獄絵図が繰り広げられた。
 長崎原爆の破壊力---広島のウラン235原爆「リトルボーイ」の1.5倍で、プルトニュウム239を使用したもので「ファットマン」と呼ばれた。上に示した広島の原爆の爆風、熱線、放射線の1.5倍の破壊力がある長崎の原爆は、街を壊滅させるほどのものだった。
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* 米国はなぜ2度も原爆を落としたのか?                     *
* 戦争では老若男女の一般市民の大量虐殺を容認するのか?             *
* 戦争には「正義のための戦争はない」ということを銘記すべきだ!                         *
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1945年8月、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ号の副操縦士ロバート・ルイス大尉が搭乗日誌に書いた。
『おお神よ、我々は何をしてしまったのか』


1947年、マンハッタン計画を主導し「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマーが原爆投下を振り返り:
『科学者は罪を知った』


1954年3月30日、物理学者湯川秀樹が第5福竜丸被爆を受けて毎日新聞に寄稿した「原子力と人類の転機」で:
『20世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくりだした』


1958年2月、原爆投下を決断したトルーマン米大統領が退任5年後の米テレビ番組で:
『良心の呵責(かしゃく)を感じなかった』

2016年5月、米大統領として初めてオバマ大統領が広島の平和記念公園を訪れて献花後の所感で:
『我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たねばならない』

2019年11月、広島と長崎を訪れたフランシスコ・ローマ教皇が長崎市の爆心地で演説で:
『ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人だ』


 ◖ヤルタ密約◗ 1945年2月
・1944年12月14日、ソ連のスターリンが米国ハリマン駐ソ大使に日本への参戦の条件に、満州国の権益、樺太(サハリン)や千島列島の領有権を要求した。
・1945年2月4日~11日、クリミヤ半島南東部のヤルタで、英チャーチル首相・米ルーズベルト大統領・ソ連スターリン首相が第2次大戦の戦後処理問題を話し合った。
・1945年2月8日、スターリンはルーズベルトの宿舎を訪れ、双方少人数で公式会談ではない私的にチャーチル抜きでの密約協議がなされた。ルーズベルトは太平洋戦争で日本の降伏にソ連の協力が欠かせないとして要求に応じた。スターリンが病弱のルーズベルトを遠い自国の会談に参加させたことは、会談の主導権を握ったものとみた。後日チャーチルがこの密約を知り反対したが、米国との関係の悪化を恐れて受け入れた。
・1994年4月12日、ルーズベルト大統領が急死した。トルーマン副大統領が代行する。
・1945年8月6日米軍広島に原爆投下。
・1945年8月9日米軍長崎に原爆投下。
・1945年8月9日スターリンが日ソ中立条約を破棄し、日本に参戦した。
(日ソ中立条約=1941年4月13日締結、1946年4月まで有効)
・1945年8月16日スターリンは北海道北東部(釧路ー留萌を結ぶ直線以北)をソ連占領地とするよう米トルーマン大統領に求めた。
・1945年8月18日トルーマンはスターリンの要求を拒否した。
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北海道が、現在の朝鮮半島のように2分されていた虞(おそれ)があった。
諜報戦の中で、条約の危ふさをいつも肝に銘じておかなければならないだろう。
1972年(昭和47)5月15日、沖縄返還がなされ復帰記念式典が行われた。(佐藤栄作首相)
(1973年3月29日米軍がベトナムから全面撤退)
北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)は未だ返還されていない。
/ ・1855年日魯通好条約~ロシアは千島列島南端ウルップ島を境界線とし、択捉島以西は
  日本領であると確認。
 ・1885年樺太千島交換条約~日本は千島列島最北の島シュムシュ島からウルップ島まで
  の18島をロシアから譲り受け、代わりに樺太全土を放棄した。
 ・1905年ポーツマス条約~日露戦争後、樺太(サハリン)南部をロシアから譲り受けた。
 ・1941年8月大西洋宣言~米・英両首脳が第2次大戦における連合国側の指導原則を宣
  言した。「戦争によって領土の拡張を求めない」
  ソ連は9月にこの憲章に参加した。
 ・1945年8月14日ポツダム宣言受諾~同年7月26日英・米・中が定めた降伏条件13か
  条からなる。ソ連は後から加わる。
 ・ソ連はポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、8月28日から9月5日までの間に北方4島
  (歯舞・色丹・択捉、国後)を不法に占拠した。
 ・1951年9月8日サンフランシスコ平和条約調印(吉田茂首相)、1952年4月28日発効
  ソ連はこの条約に調印していない。日本とロシアの間では平和条約が結ばれていな
  い。
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編 集