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2023(令和5年)~2024(令和6年)

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ロシアのウクライナ侵攻2年目
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2月24日で、ロシアのウクライナ侵攻が2年目にはいる。国連では3回目の『国連緊急特別会合』が開かれ、「ロシアに対してウクライナ侵攻即時停戦決議」が提案された。3回目になる決議案は、賛成141か国、反対7か国、棄権32か国、不参加13か国となり、1回目とほぼ変わりない評決になった。この決議案には何ら拘束力はなく、国連の機能不全をたださらけ出すことになったが、手を拱いているわけにはいかないだろう。そもそもプーチン大統領の被害妄想が端を発したのである。核兵器最大保有国に対してどう対処していけばよいか。人類に対しての大命題が投げかけられたのである。
政治家ではこの問題を解決できないだろう。自国の利益、自分の利益を優先する政治家は論議する資格はない。この戦争で勝ち負けはない。プーチンは認めないが、ロシアは2014年前に戻るべきだ。プーチンを説得できる人物はいないのか。

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アフガニスタンで65万人の命を救った中村哲医師を思う
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資料「NHKTV]
2019年12月4日アフガニスタン東部ジャララバードを車で移動中、武装グループから銃撃を受けて運転手や通訳など5人と一緒に亡くなった。73歳で志半ばでの死は、無念だったに違いない。灌漑事業の進み具合を見回っていた途中のところだった。今一度、中村医師のとてつもなく偉大な足跡をふり返り考えてみたい。
 中村医師は九州大学医学部を卒業後、医師として働いていたが、1984年キリスト教海外医療協会から派遣されパキスタン北西部のペシャワールでハンセン病を中心とする医療活動に従事した。
 1991年、パキスタンから隣国アフガニスタンの険しい地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り、多くの人々の命を救った。さらに医療活動だけでなく、「水があれば救える命がある。」の信念でアフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と干ばつに襲われた国をなんとか救おうとした。
中村医師の活動を支援しているペシャワール会(PMS)について:
1983年9月中村医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体。病気の背景には慢性の食料不足と栄養失調があることから、砂漠化した農地の回復を急務として灌漑水利事業に重点を置いて活動している。診療所、農業事業、灌漑事業、訓練所での技術の普及活動を進めている。この活動費はすべて寄付で賄われている。
1991年医師として派遣されていたパキスタンから、隣国アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り多くの人々の命を救っていた。しかも医療活動だけではなく、アフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と旱魃(カンバツ)に襲われた国を救おうとした。中村医師は「武力ではテロを断ち切れない。その背景にある貧困の問題を解決しなければならない」と考えていた。
2001年9月アメリカ同時多発テロ事件が発生。ブッシュ大統領が「テロリストたちに正義を突き付けようではないか」と叫ぶ。しかし、中村医師は「瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか素朴な疑問である」と述べた。「アフガンの問題は、政治や軍事問題ではなく、パンと水の問題である。」
「日本だけが何もしないで良いのか、国際的な孤児になるということを耳にしますが、今熟慮すべきは”先ず、何をしたらいけないのか”です。民衆の半数が飢えている状態を放棄して、国際協調も対テロ戦争もうつろに響きます。」
2002年アフガニスタンは難民で溢れ、1万人~2万人の難民キャンプもあった。これまで掘った井戸の水位も下がり再掘削に追われた。しかし、パキスタン政府は地下水の枯渇を恐れ、井戸掘りの禁止を命じた。中村医師は大胆な方向転換を余儀なくされた。
2003年『緑の大地計画』で、アフガニスタンの東部を流れるクナール川から全長13キロの用水路を築き水を送り込み乾いた大地を潤す計画である。写真1列目左と中央のもの。

中村医師の言葉『100人の医師よりは1本の水路が必要だ。』
2002年に現地に入り、初期の用水路建設に携わった川口氏は誰も経験のない当時は苦労の連続だったと振りかえった。「最初はスコップと人手で掘っていた。(写真3)何十年かかるのだろうと思った。1日に1ドルか2ドルの日雇いのお金を渡す。彼らにとっては貴重な現金収入だ。最初は100人から200人だったのが、400人から500人へと人手が増えて行った。中村医師は独学で重機の操縦を覚え、また土木工学を学習し水路の建設にあたった。水路そのものも先進国の技術で作っても、現地の人には補修ができない。中村は針金で編んだ籠に石を詰めて形を作る「蛇籠工」を用いることで、壊れても現地で修復できる工法に徹底してこだわった。(写真4)
 工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。
現地の人たちも変化が現れ、タリバンの戦闘員だった人や米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替えて協力するようになった。
「自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ。」
工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。
「農業ができるようになれば子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに家族と一緒に暮らせるんだ。」現地の人たちの率直な声だ。
『アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなくパンと水の問題である。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。』(ペシャワール会報)

建設開始から7年たった2008年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロまで伸び、完成した。「アーベ・マルワリード(真珠の水)」用水路。中村医師が手掛けた堰は9つにおよぶ。
両岸には柳の木を植え、根を張り巡らせることで水路をより強固にし、もし壊れれば住人たちが自力で修理を重ねた。
モスクとマドラッサ(学校)を建て、多くの子どもたちに学ぶ機会を与えた。
中村医師の尽力で住民たちの生活は大きく変わった。
「きれいな水が来るようになって、農場で牛に水を与えられるようになった。」
「昔はこの土地で育つ穀物が少なく、アヘン栽培に頼っていた。アヘン栽培のようなイスラム教の教えに反する行動が少なくなった。」と住民たちは語っている。
中村医師が手掛けた堰は、「マルワリード」を含めて9本に及んだ。
ある住人の父親は、自分の子どもに「ナカムラ」と名前をつけた。
カブールの空港で行われた追悼式で、アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領が自ら中村哲医師の棺を担いだ。

以上の内容は、様々な報道機関の特集を抜粋したもの。「ペシャワール会」は、すべてが寄付によって活動が成り立っている。この寄付は減税の対象にはならない。中村哲医師の崇高な遺志がさらに推し進められるよう考えている人たちは、ぜひ協力を願いたいと思います。
「ペシャワール会」で検索するとわかります。


北斗小学校跡と上幌小学校跡

6月初め北斗小学校前を通った。体育館は地域の会館として昔の儘で建っていた。バドミントン部の練習で中学校の体育館が使えなかった時に、北斗小学校へ出かけて練習したことを思い出した。その頃は最も頑張った時代で、全空知大会に6種目の部が勝ち抜いて出場したり、全道大会に2種目が勝ち抜いて出場した。また吹奏楽部は毎年のように全道大会に出場した。たとえ予選で敗れたにしても、当時の生徒はよく頑張った。えらい‼
地域PTA懇談会が夏休み前に開かれた。上幌地区の父母が集まり、全体の話が終わると、学年別に分かれ、さらに学級別に懇談する場だ。農作業や仕事で中学校まで出かけて来ることが難しい。この方式が父母とのつながりを深めて、子どもの日頃の様子を話し合うには大変良かった。西洋史4分の1の用紙の小テスト(英語)で、点数だけでなく頑張ったあとが見られた子には「えらい‼💮」を添え書きして返した。ある母から『うちの**は、テストに「えらい‼💮」をもらって、すごく喜んでいました。』と聞きすごく嬉しかったのを憶えている。

  北海道の道路と鉄道の歴史 
参考資料「ウイキペディア」他多数
◉ 江戸時代の北海道の道路 ◉
1792年(寛政4年)ロシアのラクスマンが修好通商を求めて根室に来航したり、1796~1797年イギリスの船が内浦湾に停泊したり上陸することもあり、幕府は北海道(当時は蝦夷)を東西に渉って大規模な踏査を始めた。
漁業のために入り江の近くに細い道があるだけで、人馬が通れる道はほとんどなかった。ロシアの南下に備えて特に東蝦夷の道路開削が急がれた。
1859年(安政6年)東北地方の6つの藩(秋田、庄内、会津、仙台、南部、津軽)は幕府から北海道の分領、開拓を命じられた。
それまでは、松前藩が渡島半島の南部を統治していたが、その他の領地は幕府の直轄地とは言え、たえずロシアの脅威にさらされていた。その防護を兼ねて幕府は6つの藩に分領した。
▽太平洋岸の道路開削▽
寛政年間から文政年間にかけて、さらに幕末までかけて悪天候では交通不能な道路を新たに開削し、道南の渡島の国(函館)から道東や千島国方面への陸上交通が整備された。函館から択捉末端まで282里(1107.5㎞)。

「長万部ー虻田(豊浦町)」間の道路:-
寛政11年(1799年)松前藩が開削し、享和3年(1803年)津軽藩が礼文華山道とベンベ(弁辺)山道の拡張をした。
長万部<アイヌ語シャマンベ=川尻が横になっているという意味>。豊浦町(農産物や水産物が豊富な町と言う意味)
「室蘭ー幌別」間:-
室蘭ー幌別(ポロペツ=大きい親なる川<アイヌ語>現在の登別):初めは室蘭湾を横切って絵鞆(えとも)に渡り、そこから幌別まで陸路だったが、室蘭から幌別まで陸路で行けるようになった。室蘭市立幌別小学校はダブル円形校舎で有名だった。写真は室蘭発祥の地「絵鞆岬」。
室蘭<アイヌ語モ・ルエラニ=小さな下り坂と言う意味>。
「様似山道」:-
寛政11年(1799年)開削された山道。南部藩が享和2年(1802年)から3年にかけて修繕した山道。約8㎞の山道。
幌満側から西方向へのルート。ルランベツ川を徒渉――尾根線「日高耶馬渓展望地」看板――コマモナイ沢徒渉――コトニ線――オソフケシ。
様似<アイヌ語サンマウニ=枯れ木が海岸に多く打ち上げられているという意味>。
「猿留(サルル)山道と留辺蘂(ルベシベツ)山道」:-
猿留山道は寛政11年(1799年)幕府の公金で開削された北海道<当時は蝦夷>最初の山道。
幌泉(ホロイズミ)<現襟裳町本町>――コロップ――追分峠――日高山脈南端――豊似(トヨニ)岳の山腹――沼見峠――カルシコタン――猿留川を越え――猿留<現字目黒>までの30㎞。[赤い線]
北海道の測量をした伊能忠敬や北海道の名付け親の松浦武四郎が使用した道。

留辺蘂山道は寛政10年(1798年)開削され、国道336号「黄金道路」の前身。
留辺蘂――鐚田貫(ビタタヌンケ)までの8㎞。[青い線]
ルベシベツはアイヌ語で「道が下る川」の意味。ビタタヌンケは「小石川原の砂丘」の意味。
釧路―厚岸間道路:-
釧路ー仙鳳趾(せんぽうし)間35.3㎞は寛政11年(1799年)から12年かけて馬の通行にも支障がない道路を開削した。仙鳳趾ー厚岸間21.6㎞は文化5年(1808年)に開削した。現在の道道根室浜中釧路線の前身。
根室―厚別間道路:-
万延元年(安政後、文久前の元号)(1860年)昆布盛(こんぶむい)<アイヌ語「コムブ・モイ」=水中の石の上に生える草>から厚別(あつしべつ)に至る36.4㎞を開削。
根室(ねむろ)駅<アイヌ語「ニムオロ」=樹林>から昆布盛駅まで15分、昆布盛駅から釧路駅まで2時間。

▽日本海岸の道路開削▽
「太田山道」、「狩場山道」:-安政4年3月起工、太田山神社のある太田山を中心にセキナイ<シュプキナイ=茅沢>からラルイシ(良瑠石)までの47㎞を開削、ついで狩場山道に着手し、須築から島牧村原歌のコタニシに至る道を開削した。
「雷電嶺」:-安政3年(1856年)アフシタ以西4㎞を磯屋場所請負人、アフシタ以東8㎞を岩内場所請負人が開削した。雷電峠はりょうばしょの境を越える道で、国道229号線の前身。以前から山中に温泉が湧くことが知られており、現在の朝日温泉。
「余市山道」:-文化6年に開削された岩内から余市に至る道で、稲穂峠がある大変な難所だった。その後荒廃したため、安政3年から4年尾にかけて改めて開削。その距離は50㎞近くになった。
編 集